White Fire - 2

Scene 2. inquisition

Vocatus
Atque non vocatus
Deus adest──

 扉を一枚挟み、やや遠く聞こえるその歌にオーランは耳を傾けていた。
 呼ぼうと、呼ぶまいと、神はここにまします──。
 イヴァリースの民であれば……グレバドスの信者であれば、誰もが皆知っている歌だ。それは無論オーランとて同じである。澄み渡るように響く歌声は今も昔も、何も変わらない。
「Vocatus ...」
 小さく呟きながらオーランは手の中にあるものに目を落とした。それは一冊の書。この歌も信仰も、イヴァリースを支える柱であるグレバドス教という宗教のすべてを否定するもの。それが彼の手の内に今、ある。
 ──呼ぼうと、呼ぶまいと、か。
 神はここにいる。古い歌の一節はこんな意味である。もしそうなのであれば、神が今この場にいるのであれば、一体どんなふうに思っているのだろう。
 視線を白書から扉へ移しながらオーランは思った。歌は途切れることなく続いていく。
 ──茶番だと思うか。それとも?
 立ち上がり、扉に背を向ける。門の前に立っていた兵士が制止するような声を出しかけて、もうひとりの年配の兵士に止められるのを背に感じ、オーランは心の中で謝した。
 窓の外はこちらと違って光に満ちている。澄んだ空気が大地を潤しているのが目に見えるようで、思わずオーランは微笑んだ。それらはすべてこの場所と対照的な位置にあるもの。
 光はすなわち未来。今自分のいるこの闇は過去。
「もし……」
 言葉にしかけて口を噤む。もし自分が……自分以外の誰だとしても。
 ──こんなことは茶番だと思うだろう。
 塔を巡る鳥の群れに目を細める。群れの中にいたならば外敵に狙われる確率は減る。突飛な行動さえしなければ、命を狙われることもないのは、それは人間でも同じ。
 それなのに敢えて禁忌を起こそうという自分は、他の者から見れば狂気の沙汰でしかないのだろう。


 歌が止んだ。
 扉の向こうもこの場所にも、広がるのは、痛いほどの静寂。
「……オーラン殿。……オーラン・デュライ」
 年を重ね、渋味を増した声に彼は振り返った。先の兵士達が扉の前に立ち、自分を見ている。自分を映し出す瞳に憐憫の情があるのを読み取り、オーランは微笑んだ。
「ありがとう。扉を開けてくれ」
 声を震わせることもなく彼は言った。手にしている本を確かめるように持ち直し、オーランは扉に向き直った。
 ──茶番だろうと、何だろうと誰かがやらねばならない。
 この国から「闇」を完全に取り除くためには。
 ゆっくりと、年月を感じさせる音と共に扉は開かれる。
 その音に背筋を伸ばしつつ、オーラン・デュライは前を見据えた。


 ──異端審問。
 元々、公式に定められた教義から逸脱する者、あるいは教会制度を否認する者、つまりは異端者を強制排除するのは司教の役目となされてきた。この原則はグレバドス教が成立した頃より変わっていない。
 このような司教の権限の外側に、あるいはそれと重ねて設けられた教皇直属の特別機関ないし制度、それが異端審問だった。


 今しがた歌声の響き渡った大聖堂は少し薄暗く、ひんやりとしていた。門兵に促され入室を果たすと、数多の視線が飛んでくる。
 オーランは僅かに微笑んだ。
 眼差しに含まれているのは、この聖堂のように暗く冷たい炎。人ならば誰しもが持ち得る負の感情がそこには満ちていた。
 それもそうかと思う。
 この場は審判の場なのだから。そして自分は「罪人」なのだから。
 不思議と、ざわめきはない。
 歌声の余韻未だ残る聖堂を神官の案内でゆっくりと進む。目前には据えられた審問台。その周りをぐるりと神官達、そして貴族等が囲む。かつて、自分は彼らと共にあった。
 このクレメンスの大聖堂で咎人を見下ろしたこともあったのだ。
 だが、今は。
 促されるまでもなく審問台に上り、彼は手にしていた書物を文台に置いた。
 このクレメンスの、本来ならば教皇を選出する、ただそれだけの会議において突如波紋を投げかけたひとつの真実。月日が流れ、誰もが記憶の片隅にだけ留めようとした戦への疑問と語られた事実。
 それらがすべてこの書物の中にある。
「これよりオーラン・デュライの最終審問を取り行う」
 司教の宣誓にオーランは顔を上げた。
 審問はここ数日、すなわち審問が始まった頃より全く同じ方式で始まった。
 「神」に対する誓いと賛美が司教の口から滑らかに紡がれる。真理であると謳うそれは彼にとって最も真から遠いもの。
「汝と汝の悪書は教会を侮辱し、我らが神を冒涜した」
 司教の声が朗々と聖堂内に響く。オーランは再び微笑んだ。
 人の罪を暴く者が声高に笑うように。「神」の福音を告げる者があたかも歓喜に打ち震えるように。
 これ以上の茶番があろうか。
 そんなオーランの胸の内なぞ知らず、司教は彼の罪を列挙しはじめた。
 ここに集う貴族や他の聖職者が聞き逃さぬように殊更丁寧に読み上げられる。
「──先の戦乱における我がグレバドス教ならびに教会が『為したこと』をこの書は記しているが、我らはこれらが事実無根であることをここに宣する」
 何をもって事実無根と称するのか。それを質す者がいないことなど判りきったことで。
 後援を約した者は不利を悟ってか早々に逃げ出した。彼らに期待をかけていたというわけではなかったから何の感慨も抱かなかったが。
 少なくとも今、この場において自分を弁護する者はいない。
 或いはあの者達も誰かに操られ自分に与したのかもしれなかった。
「また、汝は異端者ラムザ・ベオルブと数度に渡り接触し、異端の考えを手にした。さらに先の教皇を殺害したシドルファス・オルランドゥの悪事に加担してもいる」
「それは……!」
「……汝に発言の権利は与えられていない」
 オーランは抗弁の手を挙げたが無視された。
 司教の言葉は続く。
「……故に我らはこれなるオーラン・デュライを異端と認め、このクレメンスの名において断罪する」
 澱むところのひとつもなく司教は言いきり、同時に場にざわめきが戻った。小波の如きそのざわめきには人々の暗い情念がある。
 分かりきった結末を望む、すべてを闇に葬ることを望む人々の。
 その只中にオーランはいた。
「間に合ううちに自説を撤回せよ」
 別の司教が幾分厳かな口調でオーランに言う。自説を撤回し、過ちであったことを認め、慈悲を乞えば汝の罪は許されるであろう、と。
 答えは。
 ──考えるまでもない。
 すべては、己が心に従うまで。
「これは過ちではない。過ちではないのだから、撤回に意義を見出すことはできない」
 オーランは言い放った。この場にいるすべての者に聞こえるように。はっきりと。
 数人いる司教の中からひとりが、選出されたばかりの教皇のもとに足を運ぶ。一言二言、教皇がその司教に耳打ちするたびに頭上の豪奢な帽子が揺れた。
 オーランは視線を移した。
 聖堂の一段高いところにこの国を治める男の姿を見、巡らせた視線を止める。男もまた自分を見下ろしている。
 両者の間に見えぬ火花が散った。
「宣告する」
 まもなく、先程の司教が再び発言した。他の司教が歩み出てオーランの周りを囲む。
 分かりきった結末を待ち受ける己を。
 すべてを闇に葬ることを望む人々の只中に。
「汝は今に至るまで誤謬を棄てることを望まぬ」
 宣告の指針を手に、司教は言い放つ。
 確かにそうだ、オーランは心の中で肯定した。だが勿論それは誤謬などではない。目の当たりにした現実であり、現実に触れた者の声だ。
 いずれにせよ、それを棄てる気などありはしない。
 これもまた分かりきった事実。
「霊魂の救いよりも永遠の劫罰、永遠の死を選ぶ以上、我らは汝を破門の軛に繋ぎ、教会による救いにあずかる機会を剥奪する。最終宣告を申し渡すべく定められたる今日この時刻、我ら司教ならびに異端審問官は、信仰に関する裁判官たる資格においてこの場に着座し、汝を断罪し、世俗の腕に委ね、かつ棄てる」
 世俗の腕とは、世俗権力すなわち為政者のことである。この場でいえば、居並ぶ諸貴族とその頂点に立つ「英雄王」ディリータ・ハイラルを指す。
 教会は自ら手を汚すことを望まない。言葉を重ね、形骸と化した慈悲勧告を行い、その上で半ば嬉々として「罪人」を「放棄」するのだ。
 すべては偽善に満ち溢れている。
「……この宣告によって汝を教会の裁判より排除し、世俗の腕とその権に委ねるにあたり、世俗の法廷がその固有の判決において流血と処刑に至らざらんことを願う」
 宣告はそう閉じられた。
 促されるように王の側近らしき男が、先程の教皇と同様に王の許へと足を運ぶ。正装にも関わらず国王の着衣は教皇のそれより質素に見え、オーランは不思議な心持ちになった。
 聖と俗との奇妙な逆転がここに。
 ざわめく者もいない中、一言二言、「世俗の腕」が何かを告げる。表情をこそりとも変えず淡々と。
 対して、命を受けている側近の顔は不安定に揺れていた。
 もしかすると、あの者は自分を見知っているのかもしれない。
 オーランは思った。
 やがて側近は段を降りた。先程まで司教のいた場に立つと、手にしていた紙を広げる。
 あの中には分かりきった結末が。
 動かし難い現実が。
「国王陛下の意をここに伝える」
 声は微かに震えた。
「囚人オーラン・デュライを受けとりこれを『異端者』として扱う。……故に聖俗、双方によって断罪されしこの者を、我ら『世俗の腕』は異端者として焼く」
 命は宙に浮き、言葉は余韻を持たなかった。
 言葉を発する者もない奇妙な静寂の中、かたん、と小さな音が。
 堂内のすべての者が音の源を仰ぎ見た。
 そして、オーランもまた。
 音の主は椅子。椅子の主は聖堂の一段高いところに。
 男は立ち上がり自分を見下ろしていた。表情の読み取れないまなざしで。
 受け止め、同じ強さではねかえす視線の色は確実に違うもの。
 間に、見えぬ火花が散った。