Salute

7

 いつか、彼らには会うのだろうと、そう思っていた。
 それ故に、彼らに偶然再会したときも平静を保っていられた。……少なくとも、自分に言い聞かせる余裕は、まだあった──。

「やあ」
 前方から歩いてくる人影は自分を認めると同時に、おや、という顔をして片手を挙げた。
 初秋の昼下がり。外国からの客人との会見も終わり、書庫へと続く回廊を歩んでいた折のことである。
 誰だろう、と思い、しかしオリナスは反射的に立ち止まると、歩いていた回廊の中央からすっと退いた。手を挙げた人物が、自分よりもずっと高位の者だと気付いたからだ。
 気付いた所以は、彼の胸元にある徽章。騎士団に属する者であることを示すと同時に、その中でも高位であることを示している。
 ──あの色は。
 あの色は確か、副団長の任に就く者に与えられる色。──そして、手を挙げた彼と並んで歩いているもうひとりのやや年かさの人物がつけている徽章の色は、団長職に就いていることを指し示している。
 故にオリナスは、彼が何者かと悟る前にその場を退いた。そうして改めて彼を、そして徽章を見つめる。
 ──……あ。
 妙な既視感に、オリナスの胸がにわかに騒いだ。徽章に、彼に、見覚えがあった。
 騎士団の徽章はすべて覚えている。覚えているが、無論そういうことではない。直接見て、直接知った。自分は、この徽章と──そして彼とどこかで会った。……そう、どこかで。
 従卒という身分からは当然であろう仕儀で立ち尽くすオリナスに、やがて彼らは歩を止めた。手を挙げた方は笑顔で、そしてもう片方はそんな彼を見やって「知り合いか?」というような顔をしている。
「ええ。「こう見えても」騎士団の一員なので、困っている人を見かけたら放っておけないですからね」
「は?」
「あ」
 暗号のような物言いに団長職の徽章を持つ彼は首を傾げ、そしてオリナスは目を見開いた。──符号が、ひとつにはまったのだ。
 荒野。吹き抜ける風。鳥。彼は。
 いつか自分は彼と会った。それほど昔のことではないが、もう遠い昔のようにも思える過去。この国で初めて旅をしている時、彼とは出会った。
 改めて見上げると、彼は片目を瞑り、頷いた。
 彼がつけているのは、この国の南方に位置するライオネル──その領を守る聖印騎士団のもの。そして、その色は騎士団内で二番目に高位であることを指し示している。すると、彼の名前は。
「──コリン・ホッシュ様。あの折は窮地をお助けいただき、有難うございました」
 礼儀を失わぬよう注意を払いながら──そうして焦りを気取られぬよう祈りながら──オリナスは礼を述べた。
 そんなオリナスにコリン・ホッシュは目を細めると、傍らに立つ聖印騎士団の団長に事情をざっと説明する。
 自分の主であるこの国の王──つまりはディリータ・ハイラル──とコリンは凡そ同じ年頃のようだと、その様子を眺め見ながらオリナスは推測を立てた。聖印騎士団団長はそれよりも十は上だろうか。コリンと同じような穏やかな雰囲気を身に纏い、栗色の髪をひとつに纏めた彼は、興味深げに部下の説明を聞いている。
「私がブナンザ師のお供でゴーグに出向いた折、鳥に襲われていた彼を助けたんですよ。たったひとりで旅をしていたので、鳥も付け狙いやすかったのでしょう。……一年位前だったかな?」
 向けられた最後の問いはオリナスへのものだった。
 あの時のことは未だ自身の中に鮮明に残ってはいる。残っているが故に、あの日自分が口にした「矛盾」も、彼らが見逃したという「事実」も、無論心の底に敷かれた砂利のように音を立てて軋むような感覚をもたらしてくる。
 魔法を勉強するために王都を目指す──。魔法都市はガリランドであるのに。
 最後に彼らが自分にかけた言葉──。ロマンダから来たことを彼らは知っていた。
 だが、事実も矛盾もコリンはやはり口にはしなかった。ただ穏やかに笑み、己が頷くのを待っている。
 そして、故にオリナスも頷いた。
「……ええ。もうじき一年になろうとしています。ご挨拶が遅れました。コリン様、そしてウォレス様。私はオリナス・アトウッド。陛下の従卒を務めさせていただいております」
「ああ、陛下の新しい従卒が君なのだな。宜しく、オリナス。私の名は既に知っているようだが、改めて。ウォレス・エリアル。ライオネル聖印騎士団の「こう見えても」団長だ」
「何も真似しなくてもよいでしょう……ウォレス様」
 栗色髪の男はほんの一瞬だけ呆れた表情を向けたコリンと視線を交わすと、年齢の割には邪気のない笑みで片手をオリナスに差し出した。特に断る理由もなく、オリナスはその手をとる。
 ウォレスの手はやはり武人のそれらしく、剣を持つ者の手だった。自分のとはまるで違う。
 そして意外なことに、優しかった。
 無礼を承知で、オリナスは伏すはずの面を上げた。見下ろすように覗き込むウォレスの瞳が何かを確認するようにゆっくりと細められる。
 それが何なのかは無論、オリナスには推測できるわけもなかった。もしかすると彼は──多分、彼くらいの年であればおそらく──自分に過去を見出しているのかもしれない。赤ん坊の頃の自分と会っているのかもしれない。だが、彼がそれを口に出して言わぬかぎり、推測の手がかりはそれ以上先にはけして進まないのだ。
 傍らに佇むコリンや、己が主より十ほども上の彼。それならば……あるいは。
 やがて手は離れ、ウォレスの視線もまた常のものへと戻る。過去を知る者の視線でなくなったことにオリナスは拍子抜けのような感覚を味わったが、またそれ以上に安堵が心を覆った。
 ……いつかは知るかもしれない。だが、今はまだその時ではない。
 心は静かに騒ぎ、そして落ち着く。
 己の出自や当時について。今に連なる確かな真実……知りたいと願う諸々についての手がかりが。
 この地に辿り着いてから今まで、改めて当時のことを調べもした。だが、史書は事実と思想と妄想とを混同し、また、書いた者の立場によって記述内容も大きく異なっていた。
 誰かに聞けばよいのだとも思う。思うが、基本的に己が主……ディリータも、そしてルークスも自ら進んで過去を語ろうとはしない。誰に隠しているからというわけでもなく、単に「今を生きているが故に語る必要がない」が故であり、それを知るのに時間は然程要さなかった。
 まだその時ではない、と彼らはそうして目で語る。……そう、確かに今はその時ではないとそうして自分も思う。
 もしかすると、それは逃げなのかもしれない。あるいは、否定なのかもしれない。心の内のそんな囁きに応えるすべもなく、だがさりとて逃げるわけでもなく、日々を過ごしている。
 ……だが、それでも。いつか、必ず。
「でも、オリナス?」
「──。は、はい」
 意識を引き上げるような声に、オリナスは慌てて返答した。見ると、コリンが小首を傾げてやはり愉快そうに笑んでいる。
「こちらの暮らしにはもう慣れたのかな。──ああ、そう。ブナンザ師は素敵なお嬢さんを射止めに行くのかなあなんて、あの時話していたが……」
「はい?」
 弧を描いた瞳には、悪戯めいた光が宿っている。思わずそれを覗き込み、次いでオリナスは頓狂な声をあげた。──何だって?
 ブナンザ師のことも無論覚えている。あの折、彼と共に自分を助けてくれた畏国随一の機工師にして、今も護身用に携えている銃を渡してくれた人物。飄々としていて、あっけらかんとした雰囲気が印象的だったその彼──ムスタディオ・ブナンザの話は、また、この城内でもよく聞く。それ故に忘れることはなかった。
 ……古代の文明と付き合うことができる人間は、思考もいささか突飛なのかもしれない。
「お前達は人助けのついでに何を話しているんだ?」
 同じく呆れたような風情でウォレスが溜息をつく。その言にうっかり頷きかけ──、しかし、オリナスはふと背後を振り返った。
「──」
「おや」
 見覚えのある者達がそこにはいた。
 彼らが纏う気配を、オリナスは未だ覚えていた。
 わずかな気配の変化を悟ったのか、談笑を打ち切り、コリンとウォレスもまたオリナスと同じ方向を見やる。二人の騎士は他方から歩み来る彼らを不審げに見ながら、それでもオリナスの肩にそっと触れ、回廊の中央を明け渡すように促した。
 無言の所作に、突然の再会ににわかに心が騒ぐ。呼吸は苦しくなり、伏せた視線の先、複雑に描き出す床の紋様を見つめた目が眩む。だが、息を潜めぬわけにはいかなかった。顔を上げるわけにはいかなかった。
 何故ならば、彼らは──一年ぶりにその姿を見たパラントやコンウィは──、自分は勿論、傍らに立つ二人の騎士にとっても遥かに身分が上なのだから。……事実はどうであれ、そういうものなのだから。
 そうでなければ、彼らに頭を下げなどはしない。少なくとも、今は。オリナスはそう思いながら彼らが去るのを待った。間延びしたパラントの声が自分に向けられたものではないと願いながら。
 だが。
 伏せた面の前、彼らはぴたりとその歩を止めた。そうして値踏みするような視線を無遠慮に送りつけ、見よがしに息を吐く。
「──堕ちたものだな」
「……」
 低く、暗く。ねっとりとした声で、吐き捨てるように。
 聞き慣れた声ではあった。だが、聞きたいと思ったことは一度もない声だった。
 眩んだ目を一瞬瞑り、オリナスは伏せた面をゆっくりと上げた。かつての共謀者と、そうして視線を合わせる。
 パラントとコンウィ、未だこの国でのうのうと──「計画」は水面下で進行している最中に頓挫したのだからそれは当然のことなのかもしれないが──禄を食む魍魎達は、まるで同じ視線で自分を睨みつけていた。容姿や体格は全く異なるにも関わらず、兄弟のように良く似た視線。
 その視線はかつて、自分に媚びていた。媚びる一方で、彼らは自分の価値を道具としてのみ見出していた。そんな彼らの視線にさらされ、日々を生きていた──あの頃。
 時は巡り、運命は転ぶ。
 奥歯を噛み締めると、オリナスは彼らを見つめた。コリンとウォレス──会って間もない彼らがパラントらとはまるで異なる視線を送ってくる。それはどこか不思議でもあり、だが、純粋に嬉しかった。
 それでも彼らに言は挟ませない。制しかけたウォレスの手も、何かを言いたげに開かれたコリンの口も、それ以上は動いてくれるなと願いながらオリナスはパラントらを見つめた。否、願いをコリン達が気付いてくれるようにと願いながら、だろうか。
 これは。そうしてやはり思う。
 これは、いつかは巡り来ること。──いつかは通らなければならない道。それが今だというだけのことだ。
 そして、その道は自分が切り開かなければならない。
「栄光と豊穣に祝福された道を自ら切り捨てた貴殿には、恥ずべき心や誇りなどは存在しないのであろうな。……かつて冠を戴いていた家の末裔が、これとは」
「──お久しぶりです。パラント候、コンウィ伯。長の不通、そしてご心痛を与えましたこと、お詫びする言葉もございません」
 ただひとりにしか聞こえぬように耳元で囁かれた悪意ある言葉を受け流し、オリナスはゆっくりと辞儀をした。ですが、とそうして続ける。
 視界のどこかで銀がきらめいた。
「私はお二人に感謝しなければなりませんね。──こうしてこの国に私を連れてきてくださったのは、貴方がたなのですから。そして、私にこの生き方を指し示してくださったのも。……貴方がたから逃れたいために私は自分の思いに気付かざるを得なかった」
「……小姓風情が!」
 パラントの、コンウィの顔色が醜悪に変わった。見せかけた余裕などかなぐり捨て、這うように叫ぶ。そんな彼らを目の当たりにし、オリナスはどこか醒めた心持ちでいた。
 これは、いつか巡り来ること。いつかは通らなければならない道。「彼」ならばもう少しうまくやれるのだろうが……自分にはできない。
 そして、隠していてもいつかは明らかになる。否、こうなってしまったからには、パラントらは自ら偽善者の顔をして詳らかにしようとするだろう。彼らがかつて寄越した書状のように、たったひとかけらの事実を数多の嘘で塗り固め、真実という名をつけてその意を世に問うのだ。
 無論、自分の出自は既に多くの諸侯に知られている。そして、そこに様々な流言が飛んでいることも。
 ──だが。
 オリナスの思考はそこで打ち切られた。
「……そもそも貴様のような腑抜けなど用でもなかったわ! 恩を忘れた不忠義者に寄らずとも、奪えばよいだけのこと!」
 わなと震えるパラントの声とともに、コンウィが彼方へと走り出す。だが、オリナスにそれを追う余裕はなかった。──パラントが抜刀し、切りかかってきたが故に。
 抜き慣れていないのか鞘音は耳に聞こえ悪く、その太刀筋は剣を持たぬオリナスにも緩慢に見えた。きらめく軌跡を避けるのはあまりに容易だったが、しかしそれよりも前に視界が青一色に染まる。
 ──そして、抜き身の剣と鞘とが激しくぶつかり合う音。
「騎士風情が邪魔立てをするな!」
「私利に目が眩み、王城で抜刀するとは何事か! パラント候、貴殿の罪は既に露見している! ……コリン、そしてオリナス!」
 怒鳴ったパラントを逆に鋭く一喝し、素早くウォレスは抜き放った剣でパラントのそれを払った。外套の青が鮮やかに翻る。
 その行く先を見届ける間もなく、オリナスは走り出した。己が長の意を正確に汲み取ったか、コリンがそれに続く。背後で再び、剣戟が鳴り響いた。
 ──コンウィの行く先は。
 無人の回廊を駆け抜け、角を曲がる。打ち消しもしないコンウィの足音を耳に捉え、背後には心強い気配を感じながら、しかし、オリナスは背筋の冷える思いを味わう。
 予想とは違った。彼らの行動を読みきることができなかった。──傀儡にし損ねた元王子のみならず、国の主を弑す企みとまでは、思わなかった。考えていなかった。
 怨嗟の感情で彼らが自分を狙うことは十二分に予想できた。けして短い付き合いではない……故に口内で呪を結び、怒りに任せた彼らが飛びかかってくるその時を待ち構えていた。そのためにあえて逆上するような言葉をぶつけもしたのだ。
 彼らは恨みを長年抱いていた。それ故に自分という儡を用意し、周到に王位簒奪を図っていた。だがその一方で、パラントやコンウィ、それにカラバ卿といった面々はけして己の地位を捨てようとはしなかった。自らは何をも捨て去ろうとせず、その役目を自分に強いた。
 それ故に──、そう、それ故に表面上ではあるが、彼らの地位を今なお保証する王を狙うとは考えられなかった。
 失敗した。──失敗した!
 甘い、と走りながらオリナスは自分を呪う。知らぬ間に冷静な判断を失っていた己こそを。
「オリナス、お前、陛下が何処におられるか分かっているのか!」
 背後から飛んでくるコリンの声に、オリナスは走る速度を上げながら頷いた。
 考え事は後だ。思考を巡らせたこの数瞬を、後で後悔しないためにも。今は自省すべき時ではない。最悪の展開を予想し、騒ぎ立てる胸に気を取られている場合ではない。
 ──急がなければ。
 すべての思考を棚上げし、現実を呼び出す。そうして振り返りもせずにオリナスはコリンに、コンウィの走り去った方向とは別の一方を指し示した。
「コンウィの先回りをしなければ……こちらから行きますッ!」
「おう!」
 陽射しが柔らかく揺れる石畳の階段を駆け下りる。何事かと驚く素振りの衛兵に視線を投げ、次の角を左へ。
 ──今日であれば、あの方は。
 走りながら腰に手をあて、オリナスは携えていた銃を抜き取った。呼び出した現実をひとつひとつ照合し、捨てていく。最後に残ったひとつだけを拾い上げ、それが示す先へと急ぐ。
「……ッ! オリナス!? ちょっと待ちなさい!」
「ルークス様、コンウィが!」
 角をまたひとつ曲がる。視界に飛び込んできたのは、いまや自分の親代わりのようなルークスと、姉のようでも妹のようでもある──懐かしい幼馴染。二人は息せき切って駆けてきた自分達に驚くようなまなざしを向けていた。
 悲鳴のようなリュシィの声を、視線を、オリナスはあえて無視した。今、彼女に事の経緯を説明している暇はない。無言で問うルークスにのみ、断片的に事態を知らせる。
「ついに動いたか……私もすぐに行く! お前達は先に行け! ──レング!」
 ルークスの声が流れるように過ぎ去っていく。彼が最後に呼んだ聞き覚えのある名は、先刻自分が視線を投げた衛兵のそれだ。レングもまた事態を察し、後を追って来たのだろう。
 手短にリュシィに事態を説明するルークスの声は聞こえなくなった。一段抜かしで階段を駆け下り、城壁をくぐる。石畳に生えた草に滑りそうになりながら、オリナスは城壁沿いに走った。
 ──彼は、多分。
 コンウィの姿はない。衛兵達に気取られぬように狙う──あるいは狙撃の指示を出すだけなのかもしれないが、ともあれ──ならば、コンウィは別の道を通るしかない。
 故にそれよりは彼のもとへ早く辿り着けることを正確に予測しながら、しかし、それでも今は祈るような気持ちで走る。
 何故ならば。
 未だこの国には彼しかいないのだ。この国を束ね、冠を戴くに相応しい人物は、彼をおいて他にはいない。彼……ディリータ・ハイラルの傍仕えとして城に「戻り」、間近で見るようになってより一層強く感じるようになったそれは、この国にとってのひとつの事実。
 彼を失えばこの国はあっさりと瓦解する。ようやくひとつに纏まりかけた貴族達は権力争いに再び没頭し、野は平気で踏み躙られる。立てる王も存在せず、今度こそ国が滅びる。
 彼の代わりは、いない。
 自分の代わりはいくらでもいたが、ディリータ・ハイラルという男の代わりは、存在しない。そう知るが故に。
 知ってしまったが故に。
「この先の城壁を二つくぐって、階段を駆け上がってください!」
「ああ……なるほど!」
 示した場所を理解したのか、従卒の指示にコリンは大声で了解の意を叫んだ。速度を上げた彼に負けぬよう、オリナスも必死の思いで走る。
 ひとつ、城壁を抜けた。そうしてもうひとつ。城壁の上へと続く階段を登るコリンとはそこで別れ、再び城壁沿いに進む。
 彼はその先にひとりで佇んでいるはず──確実に。
 城に上がり、まだ間もない頃だ。彼を探したその末に、入り組んだこの城壁群に迷い込んだことがある。人の気配などまるでない、ひっそりとしたその場に自分は半ば狼狽え、半ば怯えた。逢魔が時という頃合もその心理状態に左右したのかもしれない。
 だが、何故かそこに彼がいた。幾重にも城を囲む城壁のそのひとつに凭れ、佇んでいる人影があった。
 供もつけず、ひとりで。こんなうら寂しい場所に、ひとりで。
 連なる山脈は霞に沈み、その上に宵の明星がひとつ。どこからか漂う花の香は、僅かに幻想めいていた……そんな時期だった。
 何をしておられるのかと焦りながら問うた自分に、彼は一瞬素の顔を向け、それから皮肉めいた笑みを見せた。そうしてその先に続いた言葉が何だったか、それは覚えていない。あるいは、何も言わなかったのかもしれない。
 無論、彼はこんなところに迷い込んだ訳ではなかった。彼は望んでそこにいた。
 居場所を決めたかのように城壁に凭れ、何をするでもなく、ただ時を消していた。慣れたその調子がこの寂しい場所を訪れたのは一度や二度ではないことを伝えていた。
 他者と己とを隔てるために彼は望んでこの場を幾度も訪れている。……そのため、本来ならば馴染むはずもないこの風景に溶け込んでいるのだ。
 そうすることが当然であるかのように。
「……」
 息が、弾む。
 緩やかに弧を描きながら廻らされた城壁の「終焉」がその目に飛び込んでくる。握り締めた銃を今一度握りなおし、オリナスは目に力を入れた。
 ──やがて見えてきたのは。
 唯一の主君。そして、師と呼ぶべきだろう人物の姿。
「陛下! ディリータ様!」
 オリナスは彼の名を呼び、やはり古壁に凭れていたディリータの注意を引き付けた。同時にその場に立ち止まり、教えられたように銃を構える。
 どこかで、剣と剣とがぶつかり合う金属音。
 その剣戟の音のみで事態を把握したのか、名を叫ばれたディリータがオリナスに目線を走らせる。佩いていた剣を鞘から抜き放ち、そうして彼は佇んでいたその場から身体を退いた。
 見えたのは、やはり向こうから駆けてくるコンウィ伯の姿。
「オリナス、動きを止めるだけでいい!」
「──はいッ!」
 鍛えることを忘れた肉体が感情だけで斬りつけてくる。
 男の肩に照準を合わせ、オリナスは引き金を引いた。それとほぼ時を同じくしてディリータの抜き身の剣がきらめく。
 響いたのは、銃声。それから、剣が肉を断つ鈍い音。
 急の事態を知り駆けつけてきた数人分の足音と、自分の荒い息遣いだった。



 彼らは世を去った。
 ゆっくり頁を繰ると、オリナスは最後に挟み込んであった手紙を取り出した。日付の頁に挟み込んであった手紙も取り出し、卓に並べてみる。そうして彼は後に出された方の手紙を手に取った。
 流麗だがやはりどこか男のような筆致で、まず時候の挨拶が綴られている。続くのは、訪問の際の謝辞と、自分を蔑ろにした幼馴染への理不尽にして可愛らしい怒り。
 そして、最後には謝罪があった。
 此度の騒乱を招いた責任の一端には、長の間、彼らの存在を知りながらも放置していた自分や自分の父にもあるのだと、手紙にはあった。ルシュ卿に促されて書いたのか、それとも自発的に書いたのか……おそらくは後者なのだろうと思う。
 同様の手紙は正式な使者を通じて、ディリータにも届けられた。彼はただ肩を竦めて、『それにしても賑やかだった……お前も苦労するな』などと笑うだけだったが。
 偶然居合わせたライオネルの二人の騎士は顔を見合わせ、ルークスは盛大に苦笑し、そうして己は赤面した。わけの分からない汗をかき、言葉をかんだ。
 それは懐かしく、そしてもう遠い出来事。……途絶えていた繋がりがよみがえった、あの瞬間。
 便箋を折りたたみ、また元のように丁寧にしまう。頁に再び挟み込み、彼は日記の続きに目をやる。
「……」
 記されているのは、事件の顛末。
 主君に仇なした以上、彼ら──パラントやコンウィ、カラバ卿、そして彼らに与していた貴族達──に生の道はなかった。多くの貴族が捕らえられ、謀反者として断罪された。
 戦を終えたこの国にとっては、それは最後の掃討だった。彼らが所有していた領地は他の貴族に与えられることもなく、そのまま国が所有することとなった。一方で、一時期彼らと行動を共にしたという名分でオリナスもまた、暫くの間謹慎の身となった。
 淡々と手配を進めるディリータやルークスをあの当時、オリナスはどこか立ち尽くすような気持ちで眺めていた。あまりにも手馴れた采配は、彼らが同じような憂き目に何度も遭遇し、そのたびに同じような手法で切り抜けてきたことを如実に語っていたからだ。
 従う者には、幸いと覚悟を。裏切る者には、相応の咎を。
 その是非を己が裁くことはできない。だが、荒れ果て、混迷を極めた国を立て直すには、確かに有効な手段のひとつであることは確かだった。
 彼らは去った。王の術中にはまり、己の感情に溺れたその末に。



 頁を繰るごとに時が進んでいく。
 時候、謀略、政、日々のよしなしごとに、手紙。
 初めからほぼ変わらぬ文体で淡々と綴られていく彼の日記と、時を得て少しずつ変遷する自分のそれ。
 めくるごとにひとつひとつの出来事はより鮮明に浮かび上がる。時が近づいていく。

 今へと。