Salute

8

 ──蝋燭の炎はやはり、静かに揺らめいていた。
 最後に綴られた日付に目を留め、オリナスは指でなぞった。
 己の日記を見るまでもなかったが、あえて照らし合わせるように開く。無論、その日付は己の日記の中にも存在していた。
 今より数週間ほど前の、日付。
 それは、初めてこの部屋を訪れた日。そして、終わりと始まりとを彼が告げた日。

 ……最後に思い出すのは、彼の想いと自分の言葉。



 そのとき、オリナスは我が耳を疑った。
 部屋は狭く、そして薄暗い。灯りと呼べるものは、棚に置かれた蝋燭と、卓に置かれた簡易灯のみ──蝋燭は既に大分禿びており、灯は芯が絞られている。それ故に、壁に映る影はうっすらと闇に沈んでいた。
 それでも光は彼の表情を読み取るに充分といえた。おそらく同じ思いを彼も抱いていることだろう……もっとも、彼にとっては自分の表情など見ずとも分かっているのかもしれないが。
 故にオリナスは耳を疑ったのと同時に、彼を凝視した。不敬だと思いつつも。
 それほど信じられなかったのだ。彼の言が。そして、彼の言を聞き、驚いてしまった自分自身が。
 聞き返してきた家臣に、彼──ディリータはうっそりと笑ってみせた。そうして何でもないことのように肩を竦めて立ち上がると、棚に置かれた一冊の書を手に取り、再び木椅子に腰を下ろす。
「同じことを言わせるな。退位するからお前がその後に就け。俺はそう言ったのだが?」
「陛下!」
 短い叫びが風を起こしたのか、光が揺らめく。思わず立ち上がってしまったオリナスを見上げたディリータのその瞳に、光の欠片が宿る。
 そこに意思は確かにあった。玉座を守るに倦んだ者の目ではなかった。
 故にこそ、オリナスは呻いた。
 彼は本気だ。
 けして短くない年月を彼の傍で過ごしてきた──もう十ほど季節は廻った──から分かる。彼が本気であるか、それとも戯れに口の端に上らせたのかを見極めるのは、彼に忠誠を誓う者には必須であったが故に、分かる。
 王として人として、確固たる意思をその瞳に宿したまま、彼は己の去就を自ら口にした。そうして手の内の書を数度弄ぶと、言葉を繋げる。
「……オリナス。お前は忘れたわけではないだろう? この地に戻ってきたのは何故か。お前が就くべきだった地位に座り込んでいる男に、かりそめの忠誠を誓ったのは何故か?」
「! かりそめでは」
「問題はそこではない。挿げ替えるな」
「……」
 見据えられ、反駁の言葉を失ったオリナスは、立ち尽くしたまま自分の主をただ眺めた。
 無論、覚えている。忘れるはずがない。
 偽りの旗頭を望まず、荒野を歩いた日々があった。彼を目の前にし、縺れる舌で口にした言葉から自分自身の心を知った日があった。
 あの日、決死の思いで告げた言葉──あの言葉が今を生み出し続けている。
 多くの望みをひとつに。何人にも左右されず、自分の道を。
 それ故に望んだ。そして、望んだ自分に彼はこう言ったのだ。
「玉座をいただきたいと、そう私は陛下に。……そして陛下はその私に、「見定める必要がある」と仰られました」
「そうだな」
 ──今からこの先、見定める必要がある。
 お前が俺に──このディリータ・ハイラルに挿げ替わる存在として、相応しいか。
 国を束ねる者として、どれほどのものなのか。
 そうして「守る者」となれるか、否か──。
 詠唱のように紡がれた彼の科白は、オリナスの胸に未だ残り続けている。他のどんな記憶が薄れようとも、あの日の仔細が述懐色に染まろうとも、これだけはいつも胸の中に。
 それは、彼の本心だったからだ。自分に決意させるのと時を同じくして、彼自らにも決意を要した言葉だったからだ。
 為政者として。彼が守りたいと願う「何か」の守り手として。
 見極めるための日々。この長い時間は、そのためにこそあった。
「それが終わったというだけだ。……特に何があったからというわけじゃない」
 心境や身辺に変化があったわけではない。また、観察対象としてのオリナスに劇的な変化があったというわけでもない。めぐる季節の中、淡々と積み重ねてきた時の中、己の中にそんな声が生まれた。ただそれだけのこと。
「……」
 普段は言葉を費やすことなど稀な主の科白を、オリナスは黙して聞いた。蹴飛ばすようにして立った椅子の背もたれを掴み、深みのある声で紡がれる彼の思いに耳を傾ける。
 暗い室に、そうして光が揺れる。
「十年という月日はけして短くはないだろう。特にお前のように」
 まるで秘密事を告げるように、光が声に揺れる。
「少年の域を抜けぬ頃からの十年という歳月は、見定める側からいえば充分なものだ。……まあ、それで見抜けぬほどの暗い野心をお前が抱いたとしても」
「陛下」
 反論にディリータが緩く首を振る。ちらりと手の内の書に目をやると、それを彼はオリナスに差し出した。
「その書をお前が焼いてしまおうとも。あるいは、その書を理由に俺を訴求しようとも。……それは俺が見抜けなかったというだけのことだな」
「……?」
 声に、言い表せぬ想いが滲む。今まで聞いたことのないその声色にオリナスは顔を上げかけ、しかし、視線は今や自分の手の内にある書に縫いとめられてしまっていた。
 暗く、忘れ去られた部屋に唯一あった書。読まれた形跡はそれ故かごく浅く、表紙にはうっすらと埃が降り積もっていた。
 促されるような視線に、頁を繰る。薄紙を挟んで、現れた扉紙に書かれた名に、オリナスは目を落とした。
 そこに、在ったのは。書かれていたのは。
「──」
 信じられない思いで、今度こそオリナスは顔を上げた。見守るように眺めていたのだろう彼の視線と己の視線とが交差する。
 何も言わぬ彼に、言外の問いを投げかける。唐突に現れた一冊の書に、思考は滑稽なほどに空転してしまっていた。
 何故。何故この書が。
 著者の名は、オーラン・デュライ。南天騎士団の軍師として鴎国との戦で功を上げたとされる男だ。
 そして、異端の書を為したとして審問の末に処刑された人物。
 その書が──白書とだけ書かれた異端の書が、今、手の内にある。確かめるように扉紙を再度凝視してみても、記された名はけして変わらない。
「何故、これが」
「不思議か?」
 素っ気無い主の問いに、オリナスはただ頷いた。常ならば含まれるはずの揶揄の色が、彼の瞳の内にないことにも気付けなかった。それほどの衝撃が胸を貫いていた。
 書は、この場に在るわけがないものだった。否──、在ってはならないものだった。
 この書の存在や書かれた経緯は、当時の記録を通じて頭には入っていた。もっとも、そこにはただ短く審問の日付と罪状、出席者、そして公開処刑の日付が記されていただけで、それ以上の記述は何処にも見当たらなかったが。
 出席者の中には、目の前の彼の名も当然あった。教会という「聖」の空間から放り出された咎人を断罪する「世俗の腕」として、彼は在った。
 真実を書いたと己の主張を貫き通したオーラン・デュライは審問の末、処刑された。そして、その際に彼のすべての著書も焚書となったのだ。その引き金となった書──白書も、無論。
 それなのに、何故。
 空回る頭の何処かでそれでも疑問は徐々に変質する。書がこの場に在るのは、今となっては確かだ。この筆致には見覚えがあった……焼いてしまうわけにはいかぬ彼名義の公文書が、城には多くある。書の筆致とそれとは確かに一致していた。
 問題はそこではない。
 何故この書が此処に在るのか。それが問題なのだ。そして、その謎を解く鍵はこの場にすべて揃っているではないか。
 自分は、この書を今、誰から受け取った? この書は、今の今まで何処に在り続けた? オリナスは自分の心の内に問い返す。
「……ディリータ様」
 そして、彼が守り手を求めていたわけは。
 落とした視線を上げるとやはり彼のそれと合う。見透かすように覗き込んでいた両の瞳は己の内に何を見つけたか、すいと細められた。
「知りたかったのだろう、真実が。それはそいつの中にある」
「……この中に」
 繰り返すオリナスの言葉に、ディリータは頷いた。そうして自分の手を既に離れた書を遠目で眺める。彼がこの暗い室で隠し通してきた書を。葬ったと見せかけてこの室で──王城の隠された一室で──守り継ぐと心に定めた書を。
 オーラン・デュライの為した書。その書の中にある記述こそが真実なのだと、今、彼は静かに語った。確かに、認めた。
 淡々と彼は語る。だが、声にあわせるように光は揺れた。
 守るべきものとは、すなわち、彼自身が葬り去った真実と事実。そして、葬り去ったと見せかけてまで──己が心や過去を欺いてまで──守り通すと誓ったのは、この国。
 オリナスは半ば呆然とした。唐突にひとつとなった合わせ絵は、自分の前で思ってもみない絵となったのだ。
 真実は唐突に目の前に。彼の声色に嘘はなかった。
「やがて誰もが時の前には沈黙する。俺は自分が為し得たことがそうした歴史の狭間に埋もれるのは構わんが……しかし、「それ」はそういう類のものではない」
 未来に繋げなければならないもの。時の向こうへと届かなければならないもの。
 この書に「今」は意味がない。いつかこの書を要する者のために……そして、「彼ら」に光を取り戻すために必要なのは、時そのもの。
 真実を知る者は去り、隠された書の前には残った者。真実を知る者がすべて死に絶えたとしても、この書が生き残るように。
 そして。
「……俺はその時断罪されるだろう」
 かすかにディリータは笑み、息を吐いた。
 利を優先し、真実を為した者を見殺した。それは、けして消えぬ罪。
 地位や野心に固執し、闇に走った者を見限ったのは。
 だが、それは。彼を前にしてオリナスは立ち尽くした。腕の中の書が重い。
 それでも彼は王冠を望んだ。……混乱に乗じ、己の才覚を信じ、時には裏切り──自らの望みを叶えるために。
『……あの方が国のことだけを思っていたかというと、それもまた違うのだがな』
 自分を相手に酒盃を傾けていたルークスが、遠い目でそう呟いたことがあった。潰れかけていた自分は重い瞼を何とか上げ、続きを聞こうとしたが答はなかった。
 だが。
 ひとつひとつの欠片が合わせ絵になる。ひとつひとつの欠片が自分を、彼を素通りしていく。砂のような具合の中からひとつを最後に彼は掴み取り──別のすべてを棄て去って──、そうして育てた。おそらく、この国は彼にとってそんな存在なのだろう。
 この国には彼のみが残った。それを彼は知っていた。彼に残されたものこそがこの国だった。やはりそれを彼は誰よりも知っていたのだ。
 そして、この書は彼のもうひとつの願い。棄て去った多くのものをそれでも我が身に留め、繋げたいと彼は願った。秘密裏にでも守るべきものと思い為した。
 今、それを彼は他者に託そうとしている。作り上げた国と同じくらいに大事なそれを、他でもない自分に。
 オリナスは思いを確かめるように目を瞑った。定まった心の証として腕の中の書を今一度抱く。
 見開いた視線の先、荷を下ろしたような顔で主が自分を見ている。探るようなその両の眼に己のそれを合わせ、オリナスは小さく頷いた。
 いつか、書は開かれる時が来るだろう。
 傷つき、荒れ果てた野があったことを人々が忘れようとも。
 国が闇に覆われぬよう手を尽くすのが残された者の役目と、誓った者の名は語り継がれずとも。
 そんなことよりも大切なものがあった。彼にも、そして自分にも。他者のために高みを目指したわけではなかった。
 無言のまま膝を折り、己が主君に頭を垂れた。闇に紛れても未来に続くだろう誓約を、そうして震える声を励まし、宣する。
「……この国が時を経てもなお、輝きの中に在ることを。民が、野が豊穣に潤うことを。そしてその先の未来に事実と真実が、残ることを──」
 人は、何に幸福を見いだすのだろうか?
 何のために今を生きるのだろうか?
 そして、何を残せるだろうか?
 ──ただ、分かることは。
「……頼む」
「はい」
 差し出されたディリータの、年月を経た堅い手をオリナスは躊躇うことなく握った。まもなくこの国をも去るだろう師の手を握り、何度も頷いた。
 闇が落ちる間際の室、揺らめくのは蝋燭の光。
 そうして時代は緩やかに受け継がれた。



 光は大きく揺らめく。

「……」
 オリナスは息を吐くと、二つの日記を閉じた。乾いた音がごく小さく耳に届き、それは響きもせずに闇に落ちる。
 立ち上がり、卓に並べた書のうちの二冊──彼の日記と白書──を書棚にしまう。そうして改めて卓に目をやると、元々禿びていた蝋燭は殆どその正体を失っていた。
 良い頃合だろう、と思う。多分彼女も到着しているはずだ。
 卓上の燭台に手を伸ばしかけ、しかしオリナスはふとその手を止めた。室が闇に還る前に今一度刻み込むように室を眺め回す。
 この国の、この城とは別に、自分が彼から確かに受け継いだ部屋を。
 耳に彼の言葉が蘇る。書を手にし、それでも尚──長年の問いをついに繰り出した自分に、彼は胸に落ちる声で答を明かした。
 玉座を得る者として己を傍に置いたのは何故かと。
『お前にはその権利があった──俺を殺す権利がな。……己が定めし二人の子のうち、お前はその片方だった』
『──』
 驚く自分を前に、彼は笑みを浮かべた。そうして他方の「子」を指し示すように自分が抱える書に指先で触れた。
『そういうことだ』
 ──ここは、そんな会話もあった室だった。
 自らの日記を手に、オリナスは蝋燭を吹き消した。手探りで扉を開き、注意深く周囲を見やると素早く外に出る。
「Vocatus Atque non vocatus...」
 あの日、師から教えられた詠唱をそうして呟く。鍵のかかる音が内部で響くのを合図に、新たな詠唱を繋いだ。
 室が誰にも気取られぬように。書が確かに未来へと引き継がれるように。彼の願いを自らのそれと合わせながら。
「Where does one find good fortune?」
 書の中でデュライが投げかけた三つの問い。その問いを扉隠しの鍵としてオリナスは紡ぐ。
「What possesses them to live for the present?」
 紡がれるごとに扉はその姿を消していく。元々誰も通ることのない場の、忘れ去られた扉が目の前で消えていく。
「What treasures will they leave behind?」
 詠唱を終え、やがて扉が完全に消えたことを確かめると、オリナスはゆっくりと踵を返した。闇に慣れた目に陽光が眩しい。
 
 
 真実は眠りの中へ。眠りは闇の中へ。
 闇を知り、いつか光の中へ。
 そのために、今を。

 守る者として未来を託された青年は、そうして歩き出した。